オバマのママの物語(2) (TIME)
TIME April 09, 2008
The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley
スタンリー・アン・ダナム
1942 年、ヒラリー・クリントンが生まれるちょうど 5 年前に、オバマの母は米国で生を
受けた。折しも米国は、前年に参戦した戦争と人種的分離、異人種間に高まる不信感によって
自由が抑圧されている最中にあった。「スタンリー」という男名前は、彼女の父親が息子を
欲しがっていたからだ。この名前がからかいの対象になることは約束されていたようなものだが、
彼女はそれに耐えた。ハイスクールでは常にこの名前がついて回り、新しい土地のクラスで
自己紹介のたびに、彼女は名前の由来を説明したものだった。
彼女は一生の間に、4 つの異なる名前を持った。
それぞれが、彼女の人生における第 1 章から第 4 章までの章タイトルだ。
第 1 章「スタンリー時代」 —— 彼女が 18 歳を迎えるまでに、一家は 5 回以上
引っ越しをし、4 つの州に移り住んだ。生まれ故郷のカンザスからカリフォルニア、
テキサス、ワシントン。家具の販売員だった父親はひとつ所に落ち着くことのできない
性格で、それは彼女にも受け継がれた。
ハイスクール時代はワシントン州の小さな島で終えた。
哲学の上級クラスを取り、シアトルのコーヒーショップに通った。
「彼女はとても知的でもの静かで友情に厚くて、時事問題に興味を持っていたわね」
ハイスクール時代の親友、マキシン・ボックスが思い出を語る。
2 人の少女はともに、大学に進学して職業婦人になることを疑ってもいなかった。
「彼女は子どもや結婚には、特に興味もないようだったわ」
スタンリーには早い時期に、シカゴ大学への入学許可が下りていたが、父親は娘を
大学にやりたがらなかった。父親の言い分は —— 娘とひとつ屋根の下に暮らす父親には
ありがちなことだが —— こうだ。「一人立ちには早すぎる」
彼女がハイスクールを終えるや、一家は再び転居した。ホノルルの大きな家具店の話を、父親が
聞きつけたのだ。ハワイはちょうど米国の州となったばかりの「ニューフロンティア」だった。
再度の引っ越しに不承不承ついていったスタンリーは、ハワイ大学の新入生となった。
バラク・H・オバマ夫人
ハワイへ移る直前に、スタンリーは初めて外国映画を観ている。ギリシャ神話の悲恋物語
オルフェウスに材を取ったアカデミー賞受賞ミュージカル『Black Orpheus(邦題:黒いオルフェ)』。
この映画は、今日の価値観ではエキゾチックに過ぎるきらいがある。ブラジルで撮影され、
おまけに脚本家が白人のフランス人だからだろう。感傷的で、恩着せがましい。
後年オバマは母親と一緒にこの映画を観たが、途中で席を立ちたかったともらしている。
しかし隣で画面に目を凝らす母親に、オバマは 16 歳のスタンリーの面影を見た。
彼は回顧録『Dreams from My Father(邦題:マイ・ドリーム〜バラク・オバマ自伝)』の
中で述べている。
「(16 歳の少女を母の中に見て)一瞬のうちに分かった。いまスクリーンの上に見ている
稚拙な黒人の描写こそが、カンザスの白人中流家庭に育った少女には禁じられていた
シンプルなファンタジー —— 温かく、官能的で、エキゾチックで、異質な、
いまとは違う人生を約束するもの —— の反映なのだと」
大学入学以来、スタンリーは「アン」と自己紹介するようになった。
バラク・オバマ・シニアとは、ロシア語のクラスで出会った。彼はハワイ大学で受講する
最初のアフリカンの 1 人で、周囲の好奇心の的だった。彼は教会グループで講演し、
いくつかの地方新聞からインタビューを受けている。
「彼には、ひとを惹きつける人間的魅力があった」と、オバマ・シニアの
学生時代の友人でハワイ州選出議員のニール・エイバークロンビーは語る。
「彼は雄弁家だった。ありふれた意見でさえ、聴くひとを魅了した」
オバマ・シニアは、あっという間に友人グループのリーダー的存在になった。
エイバークロンビーは言う。
「ビールを飲み、ピザをつまみ、レコードをかけて踊ったもんだ」
彼らはベトナムや政治についても語った。
「誰もが、あらゆることに意見を持っていた。そして誰もが、
バラクの意見を聞きたがった。ほかの誰のでもない、バラクのをだ」