オバマのママの物語(3) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley


だが、アンは例外だった。オバマ・シニアの取り巻きに加わったばかりの彼女は、
そうした騒々しい学生たちの中にあって実に目立たない存在だった。
「彼女はまだ、ほとんどハイスクールの生徒そのままだった。傍観者として、そこに
いるだけだったな」というのが、エイバークロンビーのアン評だ。オバマ・シニアが
白人女性とデートしていることは友人たちの知るところとなったが、彼らはそれを、
取り立てて注目すべきこととも考えなかった。ここはハワイで、「人種の坩堝」として
知られており、つまり、なんでもありの場所だったからこそ、彼らを惹きつけたのだ。


1960 年代にハワイが「坩堝」と呼ばれたのは、白人とアジアンが混在する場所だった
からだ。当時ハワイでは白人女性の 19 %が中国人男性と結婚しており、米国の他の
地域からは急進的な場所だと考えられていた。黒人はハワイ人口の 1 %にも満たなかった。
そして異人種間の結婚はハワイでは合法だったが、全米の州の半数では禁じられていた。


アンは両親にアフリカンの学生の話をし、彼らはその学生を夕食に招待した。
アンの父親は娘がその黒人の手を握ることにまったく注意を払わなかったと、
オバマは著書に書いている。アンの母親は母親で、大騒ぎすべきではないと考えた。
そのときの様子を、後年オバマはこう述べることになる。


「母は、頭の中の “美しき黒人映画” を演じる少女だった」


離婚の際の記録によれば、1961 年 2 月 2 日、出会って数カ月後に
オバマの両親はマウイで結婚式を挙げた。木曜日だった。
アンのお腹の中には、3 カ月のバラク・オバマ 2 世がいた。
友人たちは後々まで、この結婚のことを知らなかった。
「式には誰も呼ばれなかったよ」とエイバークロンビー。
2 人の息子のオバマにとってさえ、両親の結婚の動機は謎だ。


「こまかいことを母に尋ねたことはない。妊娠したから結婚したのか、
あるいは古式ゆかしく父が母にプロポーズしたのか」


「母が生きていれば、きっと尋ねたのだろうが」


当時の一般的な結婚観に照らしてみても、アンは結婚するには若かった。
18 歳、ハワイ大学の記録では、1 学期を終えたところでアンは退学している。
この知らせを聞いて、アンのワシントン時代の友人たちは「みんなショックを
受けたわね、すごく」とマキシン・ボックスは語る。


オバマが 1 歳くらいのとき、オバマ・シニアはハワイを離れ、経済学の博士号を取得するために
ハーバードに入学した。同時にニューヨークのニュースクール大学には奨学生としての入学が
認められており、アンはそちらを勧めたのだが、彼はハーバードを選んだ。
オバマの著書によれば、彼はこう言ってアンを説得した。


「最高の教育を受けたいんだ」


オバマ・シニアには課題があった —— 故郷ケニアに戻り、その発展に寄与すること。
彼は妻と子どもを連れ帰りたいと思っていたが、既に彼にはケニアに妻があった。
その結婚が法的に成立するのかしないのか、彼自身にも分からなかったのだが。
結局アンは彼についていかなかった。
エイバークロンビーはこう言う。


「彼女は幻想の中に生きていたわけではないからね。
ラクはバラクの時間を生きていた。
堅牢な父権社会がつくり出した時間の中に」


1964 年 1 月、アンはホノルルで離婚手続きを取る。申請書には、
離婚の最大の原因は「重大な精神的苦痛」と記された。
オバマ・シニアはマサチューセッツ州ケンブリッジで書類にサインし、
離婚調停にはかけなかった。


アンは既に、同世代の女性が持ち得ない経験をしていた。アフリカンと結婚し、
子どもを儲け、そして離婚。これによって、彼女の人生における選択肢は
限られたものとなったはずだ —— 若くて、女性の社会的地位は低く、
家賃の支払いと子どもの養育は彼女ひとりの肩にかかっている。
彼女は息子の頭を、彼らを捨てていった父親への恨みつらみでいっぱいに
できたはずだし、それには十分な根拠もある。だが、そうはならなかった。