オバマのママの物語(7) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley


アンが専門家として遺した恒久的な成果の最大のものは、インドネシアにおける
マイクロファイナンスの仕組みの構築を手助けしたことだ。1988 年から 92 年にかけて
彼女が手掛ける以前から、信用力の低い企業家への小額ローン貸し付けはビジネスとして
確実に成功すると既に認知されてはいた。実際のひとびとの勤労動向に関するアンの
人類学的研究が、ラクヤット・インドネシア銀行がそれを商品に組み込むことを
促したのだと、同銀行に勤めていたエコノミストのパッテンは言う。


「彼女の研究結果は、このプログラムの成功に大きく貢献したと言える」


マイクロファイナンス市場調査団体マイクロファイナンス・インフォメーション・
エクスチェンジ(MIX)によれば、現在インドネシアマイクロファイナンス
プログラム利用者は 3100 万人に上り、世界最大となっている。


母親がインドネシアで貧しいひとびとを救ったと同じことを、オバマはそこから
7000 マイル(約 1 万 1300キロメートル)離れたシカゴで、社会の統率者として
実行しようとしている。アンは息子のキャリアアップをその都度喜び、彼女の会話は
常に息子や娘がどうしたこうしたという話題から始まったと、彼女の友人たちは言う。
友人のひとり、ジョージア・マコーリーが語る。


「わたしたちはみんな、バラクがどこの学校に通っているか知っていたわ。
彼がアンの中でどんなに輝いていたかもね、みんながよ」


時々、アンはインドネシアを離れてハワイで生活した。あるいはニューヨークで、
あるいは 1980 年代半ばにはパキスタンで。マイクロファイナンスの仕事のために。
アンは娘をつれて時にはガレージハウスに住み、時には友人の部屋に居候した。
その旅でアンは宝物の数々を集めた。それぞれの地で彼女が触れた物語に彩られた、
とびきりの宝物たちだ——ジャワ伝来の曲線を描いて反るアンティークの短剣、
よそ行き着用のバティック(ろうけつ染めの生地)、農夫が田んぼでかぶる帽子……。
1984 年に娘とハワイへ戻るときに友人のドウェイへ宛てたアンの手紙には、
こう認められていた。


「駱駝 1 頭と象が 1 頭か 2 頭のキャラバンが必要でしょう、
わたしたちの荷物を飛行機に積み込むためにね。さもなければ、
航空会社が泣きわめき制服を掻きむしることになるわ」


シカゴの自宅で、オバマは母親がカンザスから持ってきた矢じりの
コレクションのことを語り、そしてこのように付け加えるのだ。


「バティックがぎゅうぎゅうに詰まったトランクの山を目の前にして、
これをいったい、どうすればいいんだと途方に暮れるわけさ」


1992 年、仕事の合間に続けた研究で、アンはついに博士論文を書き上げた。
ほぼ 20 年がかりだった。1000 ページにおよぶ、インドネシアの鍛冶職工の
詳細な分析だ。彼女自身に言わせれば「満足とはほど遠い」用語解説が 24 ページ。
彼女は母親とアドバイザーを務めたドウェイに献辞を捧げた。


「そしてバラクとマヤに。フィールドに出たきりで家庭を疎かにする母に、
彼らは滅多に不満を述べないでいてくれた」


1994 年秋のジャカルタ、友人のパッテン宅で夕食の席に着いているとき、
アンは胃に痛みを覚えた。地元の医師は単なる消化不良と診断した。
数カ月後ハワイに戻り、卵巣と子宮に癌が見つかった。
1995 年 11 月 7 日永眠。52 歳だった。


最期を迎える前に、アンは息子の伝記の草案を読んだ。それはもっぱら、
彼の父親のことが述べられていた。彼女の友人の何人かは、父親にばかり
偏った内容に驚いたが、彼女は気にしたふうもなかった。
ペルーソは言う。


「彼女はけっして不満は言わなかったわね。これこそ彼が
成し遂げなくてはならなかったことだと、そう言ったわ」


アンだけでなく彼女の息子も、彼らに残された時間は
わずかもないのだと知っていた。


オバマは「人生最大の失敗は」と言う。
そのとき母のそばにいてやれなかったことだと。
遺灰を太平洋に撒くために、オバマは家族と共にハワイへ行った。
オバマは母親の精神を、選挙運動の中で実践している。


「バラクが笑うとき、わたしたちはそこにアンの姿を見る。
彼女の行ないが、彼を輝かせているのよ」(ペルーソ)


アンの死後、娘のマヤ・ストロ・ンは母親の遺品の中から
彼女自身についての記録を掘り出そうとした。


「母はいつも自分の記録を書きたがっていたから、なにか遺していると思って」


ようやく見つけたそれは書き出しの部分で、2 ページにも満たなかった。それ以外には
何も見つかっていない。おそらくアンの病状は、予想以上に速く進行したのだろう。
あるいは化学療法が、そんな気力を喪うほどに彼女を疲れ果てさせたのかもしれない。
ストロ・ンはこう言う。


「わたしには分からないけれど、おそらく母は何から書くか
決められなくて、書きあぐねていたんじゃないかしら。
語るべきことが、あまりにもたくさんありすぎたから」


   (了)