オバマのママの物語(6) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley

アン・ダナム・ストロ(Sutoro)


奨学金に頼りながらホノルルの小さなアパートメントで子どもたちと暮らし始めて
3 年が経ち、アンは博士号を取得するフィールドワークのためにインドネシア
戻ることを決めた。14 歳のオバマはハワイに残ると母親に言った。
彼は生活環境が変わることにうんざりしており、祖父母の元での生活では
自分の自主性が尊重されることを分かっていた。
アンは息子に彼女の意志を押しつけることはしなかった。


「彼女はある部分で、自分自身をつき離していたわね」と、
ジャカルタ以来の友人であるマリー・ツュルブッヒェンは言う。


「おそらくそうやって、彼女が抱えていたいくつもの境界が
複雑に絡み合うのをコントロールしていたのだと思うわ」


インドネシアでは、アンは友人たちに、息子はバスケットボールにしか
興味がないのだと冗談を言っていた。
仲間のひとり、リチャード・パッテンは当時の彼女を思い出す。


「彼女はいつも、社会的道義心でもって、息子には息子の
生き方があるのだということを認めようとしていた」


離婚の後、アンは名前を「Soetoro」ではなくモダンに「Sutoro」と綴るようになった。
彼女は女性のための事業の、またフォード財団の事業のプログラム責任者として
大きな仕事を引き受け、スタッフミーティングでは力強く発言した。
他の多くの在インドネシア外国人とは異なり、彼女は相当の時間を地元民と共に過ごし、
彼らが何を優先し何を問題視するかを女性の視点から学び取ろうとしていた。
ツュルブッヒェンは言う。


「ジャワのマーケットが彼女に影響を与えたのね、通い詰めていたから。
そこで彼女が見たのは、重い籠を背負った女性たち。彼女たちは
朝の 3 時に起きて、品物を売るために歩いてマーケットにやって来るの」


アンは、フォード財団は政府寄りの事業とは距離を置いて、もっとひとびとに
密着した事業を行なうべきだと考えた。まさに、彼女がそうしたように。


彼女の家は精力的でかつ軽んじられている者たち——政治活動家
映画制作者、音楽家、労働運動指導者——のための集会場になった。


「彼女の交友関係は、ほかの財団関係者よりもはるかに多彩だったわね。
あり得ない組み合わせのパートナー同士をまとめ上げるのよ」(ツュルブッヒェン)


アンは貧しい女性たちを親身になって世話した。彼女には人種の異なる父母を持つ
ふたりの子どもがあったが、ふたりとも、母親が性差別や人種差別について話すのを
聞いた記憶がない。
いまはホノルルの女子高で歴史を教えているマヤ・ストロ・ンは言う。


「母はほとんどポジティブなことしか話しませんでしたね。
何をすべきか、何ができるのか、ということだけ」


「母は空理空論を弄ぶひとではなかった」と、オバマは強調する。


「思うに、わたしはそれを母から受け継いでいる。
母は常識という空疎な言葉を信用していなかった」


オバマは母親が言ったジョークを覚えている。


「男と同じだけ稼ぎたいわね。でも、男と同じになったからといって、
スネを剃るのをやめるわけではないのよ」


最近フィラデルフィアで行なった人種問題に関する講演で、オバマは黒人と白人の間に
わだかまる不平不満の存在を認め、その中で彼は、意識的に母親について言及した。

NBCニュースでオバマは語っている。


「そのスピーチ原稿を書いているとき、わたしは母のことを思い浮かべていた。
母はわたしの言葉を信用してくれるだろうか、と」


大統領予備選に臨んで、彼はこう言った。


「米国のアフリカン・アメリカン政策に対する攻撃的なアプローチを、
母がよしと考えたろうとは、わたしは思わない」


1980 年代のアジアにおける国外居住者コミュニティーでは、シングルマザーは
稀な存在であり、アンは目立っていた。その上彼女は、縮れた黒髪の
大柄な女性でもあった。しかしインドネシアは非常に寛容な場所だった。
ツュルブッヒェンは言う。


「アンのような、とても個性的で存在感の大きな人物を、インドネシア
鷹揚に受け容れてくれるのよ。彼女には性に合ったのね」


アンは家の中ではバティック(ろうけつ染めの生地、ジャワ更紗)の伝統的な
部屋着を着た。食事には簡素な、昔ながらのレストランを好んだ。友人たちは、
屋台で彼女と「バクソ・ボラ・テニス」——テニスボールサイズの肉団子を
添えた麺——を分け合って食べたことを覚えている。


今日の米国であれば、アンはそれほど珍しい存在ではないだろう。
人種の異なるパートナーとの間に子どもをつくった、働くシングルマザー。
後に米国で見られることになる傾向を、いくつかの点で彼女は先取りした。
しかし、彼女は自身のそうした境遇に、なんらのコメントもしなかったと
友人たちは口を揃える。
友人の環境社会学者ナンシー・ペルーソはこう言う。


「アンは既成のどんな型にも嵌まらないひとだったわね。
でも彼女は、それが大したことだとは思っていなかったわ」