オバマのママの物語(5) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley


インドネシアムスリム人口は世界最大だが、オバマの家庭は「宗教的」ではなかった。


「日常に宗教の根ざした(米国で信徒数が最大の)パプティストでも
(2 番めの)メソジストでもない両親に育てられた母だが、わたしの
知る限りにおいて、もっとも信心深い精神の持ち主のひとりだった」


2007 年の演説で、オバマはそう述べている。


「母は “健全な無神論者” を自任しており、結果として、わたし自身もそうなった」


息子の生活の中に黒人が不在であることを、アンは彼女なりの方法で埋め合わせようとした。
夜、仕事を終えて帰宅する際には、公民権運動の本や(アフリカン・アメリカンの女性歌手)
マハリア・ジャクソンのレコードを持ち帰った。
彼女の人種間調和にかける思いは、非常にシンプルだった。


「母は、マーチン・ルーサー・キング牧師の時代の初期を理想としていた」


オバマは述べる。


「色の違うそれぞれの皮膚の下にあるのは同じ人間であり、あらゆる偏見は誤りで、
見た目の違いはそれぞれに特有の個性として捉えられるべきだと考えていた」


アンは 1970 年に生まれた娘に、いろんな肌の色の人形を与えた。


「三つ編みの小さな黒人の女の子、イヌイット、(ネイティブ・アメリカンの少女)
サカガウィア、木靴を履いた小さなオランダの少年……まるでアメリカみたいね」


と、娘のストロ・ンは笑う。


1971 年、オバマが 10 歳のとき、アンは彼をハワイの祖父母(アンの両親)の
元へやった。祖父の助けを得て奨学金を受けられることになったプレップスクール
プナホに入れるためでもあった。この、息子を手元から奪い取られるような辛い決断は、
彼女がいかに教育を重視していたかを示しているように思われる。アンの友人は、
それは彼女にとって非常に辛いことだったと言い、オバマは著書で、
母親から遠ざけられた疎外感が思春期に暗い影を落としたと述べている。
オバマは言う。


「当時わたしは、母がいないということを、なにか大切なものが
奪われたのだとは感じなかった。だが、母から離されたことは、
意識の底で大きな影響をわたしに与えているのではないかと思う」


1 年後、アンは約束どおりハワイに戻ってきた。娘は連れていたが、夫は
インドネシアに残してきた。そしてインドネシアの人類学を学ぶために、
ハワイ大学の博士課程を取った。


インドネシアは、このひとりの人類学者にとって「おとぎの国」だった。
1万 7500 の島々から成り、2 億 3000 万のひとびとが 300 以上の言語を話す。
文化は仏教、ヒンズー教イスラム教そしてかつての宗主国オランダの伝統によって
彩られている。インドネシアは「わたしたちをその中に飲み込むのよ」と、
アンの人類学者仲間で友人であるアリス・ドウェイは言う。


「とても面白いところだわ」


この頃は、アンが自身の内なる声に耳を傾け始めた時期だった。以前の彼女を知るひとは、
アンは静かで理知的な女性だと思っていたが、これ以後の彼女と会ってからは「直情的」
「情熱的」といったことばでアンを語る。タイミングも、計ったように彼女の研究に
適っていた。「地上のすべてが変わりつつあったわ」とドウェイは言う。


「植民地パワーは衰えてきていて、国々は援助を必要としていた。
開発事業は、人類学者の興味を引きつけ始めていたのよ」


アンの夫はたびたびハワイを訪れていたが、ふたりが共に暮らすことは二度となかった。
1980 年に、アンは離婚を申請した。離婚記録によれば、バラク・オバマ・シニアのときと
同様、ロロ・ストロとは通常の接触を絶ち、慰謝料と子どもの養育費は請求しないとしている。


アンの娘ストロ・ンは言う。


「母は(ものごとの悪い面は見ず、よい面だけを見ようとする)ポリアンナでは
なかったわ。わたしたちに不平不満を漏らすこともあったもの。でも、離婚で
傷つくような人間ではなかったし、男性というものを断罪するようなことは普通
しなかったし、悲観的な考え方に囚われるほど自己愛にすぎることもなかった」


いずれの結婚も失敗に終わったが、これらの結婚でアンはひとりの子どもを、
ある意味ひとつの国家を授かったのだ。