英FTが報じる「中国漁船衝突ビデオ流出」

Video leaked of Sino-Japanese boat incident


中国漁船と日本の海保巡視艇の衝突のビデオ映像がインターネットに流出したことによって、
東アジアをめぐる緊張がますます高まるだろう。


この映像は、日中間の政治的、文化的、経済的交流上の混乱を拡大させる、近年最悪の
事態である東シナ海の係争水域において9月に起こった事件の模様である。


2隻の海保巡視艇に船を衝突させて逮捕された中国漁船船長Zhan Qixiongを
日本の検察が釈放したにもかかわらず、日中関係は正常に戻っていない。


日本政府は信憑性に疑義を唱えているが、この映像は係争中の尖閣諸島
(中国名:釣魚群)海域での当初の日本の主張を裏付けるもののように見える。


YouTubeに投稿された映像では、日本海保が中国漁船に中国語で「日本領海内での活動は
許可されていない」と警告し、速やかに退去するよう命令している。


中国漁船は魚網を引き上げる間は位置を動かないが、網を引き上げると始動し、
自船よりもはるかに大きな巡視艇の後部に故意に衝突し逃走する。


別のセグメントでその漁船は、停船命令が繰り返されているにもかかわらず高速で航行し、
明らかに針路を転回して別の巡視艇の舷側に衝突している。


「おい! 停まれ! 来るぞ!」
「フタマルゴオロク(20時56分)*、該船は本船みずき右舷船尾部に衝突してきた!」
  (ヒトマルゴオロク=10時56分=の誤り)


ビデオ流出源を調査中であると政府が発表したのは、まさに政府がごく短く編集した衝突ビデオを
限られた国会議員に見せることを渋々承知した数日後のことだ。


日本政府はこれより前、衝突ビデオの公開は無人だが潜在資源の豊富な尖閣諸島を巡る
中国との摩擦を再燃させかねないとの懸念を非公式に表明していた。


尖閣諸島は古くから中国領であると主張する中国政府は、中国漁船船長の行動は
この係争上の事案であるとする申し出を当初からはねつけている。


「日本の巡視艇は中国漁船の操業を妨害し追い出し、周囲を取り囲んで拿捕した。
それは本来違法であって、中国の主権、正当な権利、中国漁民の利益を著しく犯している」
中国外交部のスポークスマンは今週、このように述べた。


「“衝突ビデオ”は事実を曲げることも日本の違法行為を隠蔽することもできはしない」


中国ではYouTubeはブロックされているため、中国のインターネットユーザーはしばしば、
動画コンテンツを国内のビデオサイトにアップロードする。


金曜朝、SinaとQQ Newsという主要な2つのニュースポータルサイトで衝突ビデオの一部が視聴された。


中国内のビデオサイトKu6ではYouTubeに投稿されたすべての映像を見ることができたが、
それはすぐに削除された。


その後も視聴できたのは、香港に拠点を置くPhoenix TVのニュースレポート番組での
短いバージョンだけだった。


Ku6には、中国漁船に肩入れする、あるいは漁船船長を賞賛する
中国インターネットユーザーのコメントが残されている。
「グッときた!」「よくやった!」


http://www.ft.com/cms/s/0/efedbc14-e8af-11df-a383-00144feab49a.html?ftcamp=rss#axzz14Qdc5cdv

オバマのママの物語(7) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley


アンが専門家として遺した恒久的な成果の最大のものは、インドネシアにおける
マイクロファイナンスの仕組みの構築を手助けしたことだ。1988 年から 92 年にかけて
彼女が手掛ける以前から、信用力の低い企業家への小額ローン貸し付けはビジネスとして
確実に成功すると既に認知されてはいた。実際のひとびとの勤労動向に関するアンの
人類学的研究が、ラクヤット・インドネシア銀行がそれを商品に組み込むことを
促したのだと、同銀行に勤めていたエコノミストのパッテンは言う。


「彼女の研究結果は、このプログラムの成功に大きく貢献したと言える」


マイクロファイナンス市場調査団体マイクロファイナンス・インフォメーション・
エクスチェンジ(MIX)によれば、現在インドネシアマイクロファイナンス
プログラム利用者は 3100 万人に上り、世界最大となっている。


母親がインドネシアで貧しいひとびとを救ったと同じことを、オバマはそこから
7000 マイル(約 1 万 1300キロメートル)離れたシカゴで、社会の統率者として
実行しようとしている。アンは息子のキャリアアップをその都度喜び、彼女の会話は
常に息子や娘がどうしたこうしたという話題から始まったと、彼女の友人たちは言う。
友人のひとり、ジョージア・マコーリーが語る。


「わたしたちはみんな、バラクがどこの学校に通っているか知っていたわ。
彼がアンの中でどんなに輝いていたかもね、みんながよ」


時々、アンはインドネシアを離れてハワイで生活した。あるいはニューヨークで、
あるいは 1980 年代半ばにはパキスタンで。マイクロファイナンスの仕事のために。
アンは娘をつれて時にはガレージハウスに住み、時には友人の部屋に居候した。
その旅でアンは宝物の数々を集めた。それぞれの地で彼女が触れた物語に彩られた、
とびきりの宝物たちだ——ジャワ伝来の曲線を描いて反るアンティークの短剣、
よそ行き着用のバティック(ろうけつ染めの生地)、農夫が田んぼでかぶる帽子……。
1984 年に娘とハワイへ戻るときに友人のドウェイへ宛てたアンの手紙には、
こう認められていた。


「駱駝 1 頭と象が 1 頭か 2 頭のキャラバンが必要でしょう、
わたしたちの荷物を飛行機に積み込むためにね。さもなければ、
航空会社が泣きわめき制服を掻きむしることになるわ」


シカゴの自宅で、オバマは母親がカンザスから持ってきた矢じりの
コレクションのことを語り、そしてこのように付け加えるのだ。


「バティックがぎゅうぎゅうに詰まったトランクの山を目の前にして、
これをいったい、どうすればいいんだと途方に暮れるわけさ」


1992 年、仕事の合間に続けた研究で、アンはついに博士論文を書き上げた。
ほぼ 20 年がかりだった。1000 ページにおよぶ、インドネシアの鍛冶職工の
詳細な分析だ。彼女自身に言わせれば「満足とはほど遠い」用語解説が 24 ページ。
彼女は母親とアドバイザーを務めたドウェイに献辞を捧げた。


「そしてバラクとマヤに。フィールドに出たきりで家庭を疎かにする母に、
彼らは滅多に不満を述べないでいてくれた」


1994 年秋のジャカルタ、友人のパッテン宅で夕食の席に着いているとき、
アンは胃に痛みを覚えた。地元の医師は単なる消化不良と診断した。
数カ月後ハワイに戻り、卵巣と子宮に癌が見つかった。
1995 年 11 月 7 日永眠。52 歳だった。


最期を迎える前に、アンは息子の伝記の草案を読んだ。それはもっぱら、
彼の父親のことが述べられていた。彼女の友人の何人かは、父親にばかり
偏った内容に驚いたが、彼女は気にしたふうもなかった。
ペルーソは言う。


「彼女はけっして不満は言わなかったわね。これこそ彼が
成し遂げなくてはならなかったことだと、そう言ったわ」


アンだけでなく彼女の息子も、彼らに残された時間は
わずかもないのだと知っていた。


オバマは「人生最大の失敗は」と言う。
そのとき母のそばにいてやれなかったことだと。
遺灰を太平洋に撒くために、オバマは家族と共にハワイへ行った。
オバマは母親の精神を、選挙運動の中で実践している。


「バラクが笑うとき、わたしたちはそこにアンの姿を見る。
彼女の行ないが、彼を輝かせているのよ」(ペルーソ)


アンの死後、娘のマヤ・ストロ・ンは母親の遺品の中から
彼女自身についての記録を掘り出そうとした。


「母はいつも自分の記録を書きたがっていたから、なにか遺していると思って」


ようやく見つけたそれは書き出しの部分で、2 ページにも満たなかった。それ以外には
何も見つかっていない。おそらくアンの病状は、予想以上に速く進行したのだろう。
あるいは化学療法が、そんな気力を喪うほどに彼女を疲れ果てさせたのかもしれない。
ストロ・ンはこう言う。


「わたしには分からないけれど、おそらく母は何から書くか
決められなくて、書きあぐねていたんじゃないかしら。
語るべきことが、あまりにもたくさんありすぎたから」


   (了)

オバマのママの物語(6) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley

アン・ダナム・ストロ(Sutoro)


奨学金に頼りながらホノルルの小さなアパートメントで子どもたちと暮らし始めて
3 年が経ち、アンは博士号を取得するフィールドワークのためにインドネシア
戻ることを決めた。14 歳のオバマはハワイに残ると母親に言った。
彼は生活環境が変わることにうんざりしており、祖父母の元での生活では
自分の自主性が尊重されることを分かっていた。
アンは息子に彼女の意志を押しつけることはしなかった。


「彼女はある部分で、自分自身をつき離していたわね」と、
ジャカルタ以来の友人であるマリー・ツュルブッヒェンは言う。


「おそらくそうやって、彼女が抱えていたいくつもの境界が
複雑に絡み合うのをコントロールしていたのだと思うわ」


インドネシアでは、アンは友人たちに、息子はバスケットボールにしか
興味がないのだと冗談を言っていた。
仲間のひとり、リチャード・パッテンは当時の彼女を思い出す。


「彼女はいつも、社会的道義心でもって、息子には息子の
生き方があるのだということを認めようとしていた」


離婚の後、アンは名前を「Soetoro」ではなくモダンに「Sutoro」と綴るようになった。
彼女は女性のための事業の、またフォード財団の事業のプログラム責任者として
大きな仕事を引き受け、スタッフミーティングでは力強く発言した。
他の多くの在インドネシア外国人とは異なり、彼女は相当の時間を地元民と共に過ごし、
彼らが何を優先し何を問題視するかを女性の視点から学び取ろうとしていた。
ツュルブッヒェンは言う。


「ジャワのマーケットが彼女に影響を与えたのね、通い詰めていたから。
そこで彼女が見たのは、重い籠を背負った女性たち。彼女たちは
朝の 3 時に起きて、品物を売るために歩いてマーケットにやって来るの」


アンは、フォード財団は政府寄りの事業とは距離を置いて、もっとひとびとに
密着した事業を行なうべきだと考えた。まさに、彼女がそうしたように。


彼女の家は精力的でかつ軽んじられている者たち——政治活動家
映画制作者、音楽家、労働運動指導者——のための集会場になった。


「彼女の交友関係は、ほかの財団関係者よりもはるかに多彩だったわね。
あり得ない組み合わせのパートナー同士をまとめ上げるのよ」(ツュルブッヒェン)


アンは貧しい女性たちを親身になって世話した。彼女には人種の異なる父母を持つ
ふたりの子どもがあったが、ふたりとも、母親が性差別や人種差別について話すのを
聞いた記憶がない。
いまはホノルルの女子高で歴史を教えているマヤ・ストロ・ンは言う。


「母はほとんどポジティブなことしか話しませんでしたね。
何をすべきか、何ができるのか、ということだけ」


「母は空理空論を弄ぶひとではなかった」と、オバマは強調する。


「思うに、わたしはそれを母から受け継いでいる。
母は常識という空疎な言葉を信用していなかった」


オバマは母親が言ったジョークを覚えている。


「男と同じだけ稼ぎたいわね。でも、男と同じになったからといって、
スネを剃るのをやめるわけではないのよ」


最近フィラデルフィアで行なった人種問題に関する講演で、オバマは黒人と白人の間に
わだかまる不平不満の存在を認め、その中で彼は、意識的に母親について言及した。

NBCニュースでオバマは語っている。


「そのスピーチ原稿を書いているとき、わたしは母のことを思い浮かべていた。
母はわたしの言葉を信用してくれるだろうか、と」


大統領予備選に臨んで、彼はこう言った。


「米国のアフリカン・アメリカン政策に対する攻撃的なアプローチを、
母がよしと考えたろうとは、わたしは思わない」


1980 年代のアジアにおける国外居住者コミュニティーでは、シングルマザーは
稀な存在であり、アンは目立っていた。その上彼女は、縮れた黒髪の
大柄な女性でもあった。しかしインドネシアは非常に寛容な場所だった。
ツュルブッヒェンは言う。


「アンのような、とても個性的で存在感の大きな人物を、インドネシア
鷹揚に受け容れてくれるのよ。彼女には性に合ったのね」


アンは家の中ではバティック(ろうけつ染めの生地、ジャワ更紗)の伝統的な
部屋着を着た。食事には簡素な、昔ながらのレストランを好んだ。友人たちは、
屋台で彼女と「バクソ・ボラ・テニス」——テニスボールサイズの肉団子を
添えた麺——を分け合って食べたことを覚えている。


今日の米国であれば、アンはそれほど珍しい存在ではないだろう。
人種の異なるパートナーとの間に子どもをつくった、働くシングルマザー。
後に米国で見られることになる傾向を、いくつかの点で彼女は先取りした。
しかし、彼女は自身のそうした境遇に、なんらのコメントもしなかったと
友人たちは口を揃える。
友人の環境社会学者ナンシー・ペルーソはこう言う。


「アンは既成のどんな型にも嵌まらないひとだったわね。
でも彼女は、それが大したことだとは思っていなかったわ」

オバマのママの物語(5) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley


インドネシアムスリム人口は世界最大だが、オバマの家庭は「宗教的」ではなかった。


「日常に宗教の根ざした(米国で信徒数が最大の)パプティストでも
(2 番めの)メソジストでもない両親に育てられた母だが、わたしの
知る限りにおいて、もっとも信心深い精神の持ち主のひとりだった」


2007 年の演説で、オバマはそう述べている。


「母は “健全な無神論者” を自任しており、結果として、わたし自身もそうなった」


息子の生活の中に黒人が不在であることを、アンは彼女なりの方法で埋め合わせようとした。
夜、仕事を終えて帰宅する際には、公民権運動の本や(アフリカン・アメリカンの女性歌手)
マハリア・ジャクソンのレコードを持ち帰った。
彼女の人種間調和にかける思いは、非常にシンプルだった。


「母は、マーチン・ルーサー・キング牧師の時代の初期を理想としていた」


オバマは述べる。


「色の違うそれぞれの皮膚の下にあるのは同じ人間であり、あらゆる偏見は誤りで、
見た目の違いはそれぞれに特有の個性として捉えられるべきだと考えていた」


アンは 1970 年に生まれた娘に、いろんな肌の色の人形を与えた。


「三つ編みの小さな黒人の女の子、イヌイット、(ネイティブ・アメリカンの少女)
サカガウィア、木靴を履いた小さなオランダの少年……まるでアメリカみたいね」


と、娘のストロ・ンは笑う。


1971 年、オバマが 10 歳のとき、アンは彼をハワイの祖父母(アンの両親)の
元へやった。祖父の助けを得て奨学金を受けられることになったプレップスクール
プナホに入れるためでもあった。この、息子を手元から奪い取られるような辛い決断は、
彼女がいかに教育を重視していたかを示しているように思われる。アンの友人は、
それは彼女にとって非常に辛いことだったと言い、オバマは著書で、
母親から遠ざけられた疎外感が思春期に暗い影を落としたと述べている。
オバマは言う。


「当時わたしは、母がいないということを、なにか大切なものが
奪われたのだとは感じなかった。だが、母から離されたことは、
意識の底で大きな影響をわたしに与えているのではないかと思う」


1 年後、アンは約束どおりハワイに戻ってきた。娘は連れていたが、夫は
インドネシアに残してきた。そしてインドネシアの人類学を学ぶために、
ハワイ大学の博士課程を取った。


インドネシアは、このひとりの人類学者にとって「おとぎの国」だった。
1万 7500 の島々から成り、2 億 3000 万のひとびとが 300 以上の言語を話す。
文化は仏教、ヒンズー教イスラム教そしてかつての宗主国オランダの伝統によって
彩られている。インドネシアは「わたしたちをその中に飲み込むのよ」と、
アンの人類学者仲間で友人であるアリス・ドウェイは言う。


「とても面白いところだわ」


この頃は、アンが自身の内なる声に耳を傾け始めた時期だった。以前の彼女を知るひとは、
アンは静かで理知的な女性だと思っていたが、これ以後の彼女と会ってからは「直情的」
「情熱的」といったことばでアンを語る。タイミングも、計ったように彼女の研究に
適っていた。「地上のすべてが変わりつつあったわ」とドウェイは言う。


「植民地パワーは衰えてきていて、国々は援助を必要としていた。
開発事業は、人類学者の興味を引きつけ始めていたのよ」


アンの夫はたびたびハワイを訪れていたが、ふたりが共に暮らすことは二度となかった。
1980 年に、アンは離婚を申請した。離婚記録によれば、バラク・オバマ・シニアのときと
同様、ロロ・ストロとは通常の接触を絶ち、慰謝料と子どもの養育費は請求しないとしている。


アンの娘ストロ・ンは言う。


「母は(ものごとの悪い面は見ず、よい面だけを見ようとする)ポリアンナでは
なかったわ。わたしたちに不平不満を漏らすこともあったもの。でも、離婚で
傷つくような人間ではなかったし、男性というものを断罪するようなことは普通
しなかったし、悲観的な考え方に囚われるほど自己愛にすぎることもなかった」


いずれの結婚も失敗に終わったが、これらの結婚でアンはひとりの子どもを、
ある意味ひとつの国家を授かったのだ。

オバマのママの物語(4) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley

S・アン・ダナム・ストロ(Soetoro [ suːtoʊroʊ ])


息子バラクが 2 歳の頃、アンは大学に戻った。経済的に困窮していて、
食事のために食料切符を集め、幼いバラクの世話は両親を頼った。
4 年後には学士号を取得した。2 度めの学生時代に、彼女はハワイ大学
もうひとりの異国学生と出会った(娘のマヤ・ストロ・ンは「独身の
女友だちには、ハワイ大学へ行きなさいって言うのよ」と冗談めかす。
マヤ自身もまた、そこで出会った外国人男性と結婚している)。
彼は寛大で、アンの父親のチェスの相手や幼い息子のレスリングの相手に
喜んで時間を割いてくれた。彼ロロは、1967 年にアンにプロポーズした。


写真を撮ってパスポートを取得し、航空チケットを買う —— 母子がロロについて
インドネシアへ行くための準備には数カ月かかった。そのときまで彼らは、
米国領から一歩も外に出たことはなかったのだ。長い旅程の後、彼らは地球上の
どこにあるかも知らない土地に降り立った。オバマは後年、こう書いている。


「飛行機から一歩外に踏み出すと、滑走路は熱で波打ち、太陽は炉のごとく燃え盛っていた」


「わたしは母の手を強く握りしめた。わたしが母を守るのだとの決意をこめて」


ロロの家はジャカルタ郊外にあり、高層建築の立ち並ぶホノルルとは、いろんな意味で
遠く離れていた。電気は通っておらず、道は鋪装されていない。国政はスハルト将軍の
支配体制に移行しつつあった。物価上昇率は 600 %以上にも達し、あらゆる物資が
不足していた。アンとオバマはその界隈で初めての外国人住民だったと、隣人たちは
語る。鶏とそこを塒とする鳥の群、そして 2 匹のワニが、裏庭を占拠していた。近所の
子どもたちと友だちになるために、家の前の塀に腰掛け、大きな鳥のように両腕を広げて
鴉の鳴き声を真似ていたオバマの姿を、幼友だちのカイ・イクラナグラは思い出す。


「わたしたちはそれを見て大笑いして、すぐに一緒に遊ぶようになったわ」


オバマカトリック系のフランチェスコアッシジ小学校に入学した。彼は
外国人であるというだけでなく、太っているという点でも目立つ存在だった。
しかし彼はからかわれても取り合わなかったし、ほかの子どもたちのように
トーフやテンペ(インドネシアの大豆食品)を買い食いしたりしなかったし、
サッカーに興じたり木に登ってグァバの実を取る仲間に入ろうとはしなかった。
当時の隣人バンバン・スッコの記憶では、オバマは子どもたちに「ニグロ」と
呼ばれても気にしていないふうだったという。


当初オバマの母親は、家の戸口に立つ物乞いのことごとくに施しを与えていた。しかし、
この惨めな境遇のひとびと —— 腕や脚のない子どもだったり、ハンセン病者だったり —— は、
ひっきりなしにやって来たため、誰に与えて誰に与えないかを彼女は選択せざるを得なくなった。
大きな苦しみと小さな苦しみを合理的に峻別しようと悩む彼女に、夫のロロは呆れていた。
彼はオバマに皮肉っぽく言った。


「きみのお母さんは、ソフトな心の持ち主だな」


アンがますますインドネシアに感化されるにつれ、夫のロロはますます西洋かぶれと
なった。米系石油会社に勤めるロロの地位が上がると、彼は一家を「上品な」地域に
移した。夫が連れ回すディナーパーティーは彼女をうんざりさせた。男たちは
ゴルフのスコアを自慢し合い、妻たちはインドネシア人召し使いへの愚痴をこぼす。
アンとロロは滅多に喧嘩をすることはなかったが、日々こころは離れていった。
「母は孤独と向き合う覚悟ができていなかった」と、オバマ回顧録に書いている。


「それは息切れのように、一定のリズムでコンスタントに母を追い詰めていった」


アンは米国大使館での英語教師の職を得る。彼女は生涯を通じて、夜明け前に起きるひとだった。
アメリカから届く通信教育の英語の教材をオバマに渡すために、彼女は毎朝 4 時に息子の部屋に
入っていった。彼女は、エリート・インターナショナル・スクールに通わせる余裕がないために、
息子に十分な教育機会を与えられないことを気に病んでいた。2 年後、オバマはそれまで
通っていたカトリック系学校から新居近くの国営小学校に転入した。彼は唯一の外国人だったと、
当時の級友アティ・キジャントは言う。しかし、いくらかのインドネシア語を話す彼には、
新しい友だちができた。

オバマのママの物語(3) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley


だが、アンは例外だった。オバマ・シニアの取り巻きに加わったばかりの彼女は、
そうした騒々しい学生たちの中にあって実に目立たない存在だった。
「彼女はまだ、ほとんどハイスクールの生徒そのままだった。傍観者として、そこに
いるだけだったな」というのが、エイバークロンビーのアン評だ。オバマ・シニアが
白人女性とデートしていることは友人たちの知るところとなったが、彼らはそれを、
取り立てて注目すべきこととも考えなかった。ここはハワイで、「人種の坩堝」として
知られており、つまり、なんでもありの場所だったからこそ、彼らを惹きつけたのだ。


1960 年代にハワイが「坩堝」と呼ばれたのは、白人とアジアンが混在する場所だった
からだ。当時ハワイでは白人女性の 19 %が中国人男性と結婚しており、米国の他の
地域からは急進的な場所だと考えられていた。黒人はハワイ人口の 1 %にも満たなかった。
そして異人種間の結婚はハワイでは合法だったが、全米の州の半数では禁じられていた。


アンは両親にアフリカンの学生の話をし、彼らはその学生を夕食に招待した。
アンの父親は娘がその黒人の手を握ることにまったく注意を払わなかったと、
オバマは著書に書いている。アンの母親は母親で、大騒ぎすべきではないと考えた。
そのときの様子を、後年オバマはこう述べることになる。


「母は、頭の中の “美しき黒人映画” を演じる少女だった」


離婚の際の記録によれば、1961 年 2 月 2 日、出会って数カ月後に
オバマの両親はマウイで結婚式を挙げた。木曜日だった。
アンのお腹の中には、3 カ月のバラク・オバマ 2 世がいた。
友人たちは後々まで、この結婚のことを知らなかった。
「式には誰も呼ばれなかったよ」とエイバークロンビー。
2 人の息子のオバマにとってさえ、両親の結婚の動機は謎だ。


「こまかいことを母に尋ねたことはない。妊娠したから結婚したのか、
あるいは古式ゆかしく父が母にプロポーズしたのか」


「母が生きていれば、きっと尋ねたのだろうが」


当時の一般的な結婚観に照らしてみても、アンは結婚するには若かった。
18 歳、ハワイ大学の記録では、1 学期を終えたところでアンは退学している。
この知らせを聞いて、アンのワシントン時代の友人たちは「みんなショックを
受けたわね、すごく」とマキシン・ボックスは語る。


オバマが 1 歳くらいのとき、オバマ・シニアはハワイを離れ、経済学の博士号を取得するために
ハーバードに入学した。同時にニューヨークのニュースクール大学には奨学生としての入学が
認められており、アンはそちらを勧めたのだが、彼はハーバードを選んだ。
オバマの著書によれば、彼はこう言ってアンを説得した。


「最高の教育を受けたいんだ」


オバマ・シニアには課題があった —— 故郷ケニアに戻り、その発展に寄与すること。
彼は妻と子どもを連れ帰りたいと思っていたが、既に彼にはケニアに妻があった。
その結婚が法的に成立するのかしないのか、彼自身にも分からなかったのだが。
結局アンは彼についていかなかった。
エイバークロンビーはこう言う。


「彼女は幻想の中に生きていたわけではないからね。
ラクはバラクの時間を生きていた。
堅牢な父権社会がつくり出した時間の中に」


1964 年 1 月、アンはホノルルで離婚手続きを取る。申請書には、
離婚の最大の原因は「重大な精神的苦痛」と記された。
オバマ・シニアはマサチューセッツ州ケンブリッジで書類にサインし、
離婚調停にはかけなかった。


アンは既に、同世代の女性が持ち得ない経験をしていた。アフリカンと結婚し、
子どもを儲け、そして離婚。これによって、彼女の人生における選択肢は
限られたものとなったはずだ —— 若くて、女性の社会的地位は低く、
家賃の支払いと子どもの養育は彼女ひとりの肩にかかっている。
彼女は息子の頭を、彼らを捨てていった父親への恨みつらみでいっぱいに
できたはずだし、それには十分な根拠もある。だが、そうはならなかった。

オバマのママの物語(2) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley

スタンリー・アン・ダナム


1942 年、ヒラリー・クリントンが生まれるちょうど 5 年前に、オバマの母は米国で生を
受けた。折しも米国は、前年に参戦した戦争と人種的分離、異人種間に高まる不信感によって
自由が抑圧されている最中にあった。「スタンリー」という男名前は、彼女の父親が息子を
欲しがっていたからだ。この名前がからかいの対象になることは約束されていたようなものだが、
彼女はそれに耐えた。ハイスクールでは常にこの名前がついて回り、新しい土地のクラスで
自己紹介のたびに、彼女は名前の由来を説明したものだった。


彼女は一生の間に、4 つの異なる名前を持った。
それぞれが、彼女の人生における第 1 章から第 4 章までの章タイトルだ。
第 1 章「スタンリー時代」 —— 彼女が 18 歳を迎えるまでに、一家は 5 回以上
引っ越しをし、4 つの州に移り住んだ。生まれ故郷のカンザスからカリフォルニア、
テキサス、ワシントン。家具の販売員だった父親はひとつ所に落ち着くことのできない
性格で、それは彼女にも受け継がれた。


ハイスクール時代はワシントン州の小さな島で終えた。
哲学の上級クラスを取り、シアトルのコーヒーショップに通った。


「彼女はとても知的でもの静かで友情に厚くて、時事問題に興味を持っていたわね」


ハイスクール時代の親友、マキシン・ボックスが思い出を語る。
2 人の少女はともに、大学に進学して職業婦人になることを疑ってもいなかった。


「彼女は子どもや結婚には、特に興味もないようだったわ」


スタンリーには早い時期に、シカゴ大学への入学許可が下りていたが、父親は娘を
大学にやりたがらなかった。父親の言い分は —— 娘とひとつ屋根の下に暮らす父親には
ありがちなことだが —— こうだ。「一人立ちには早すぎる」


彼女がハイスクールを終えるや、一家は再び転居した。ホノルルの大きな家具店の話を、父親が
聞きつけたのだ。ハワイはちょうど米国の州となったばかりの「ニューフロンティア」だった。
再度の引っ越しに不承不承ついていったスタンリーは、ハワイ大学の新入生となった。

ラク・H・オバマ夫人


ハワイへ移る直前に、スタンリーは初めて外国映画を観ている。ギリシャ神話の悲恋物語
オルフェウスに材を取ったアカデミー賞受賞ミュージカル『Black Orpheus(邦題:黒いオルフェ)』。
この映画は、今日の価値観ではエキゾチックに過ぎるきらいがある。ブラジルで撮影され、
おまけに脚本家が白人のフランス人だからだろう。感傷的で、恩着せがましい。
後年オバマは母親と一緒にこの映画を観たが、途中で席を立ちたかったともらしている。
しかし隣で画面に目を凝らす母親に、オバマは 16 歳のスタンリーの面影を見た。
彼は回顧録『Dreams from My Father(邦題:マイ・ドリーム〜バラク・オバマ自伝)』の
中で述べている。


「(16 歳の少女を母の中に見て)一瞬のうちに分かった。いまスクリーンの上に見ている
稚拙な黒人の描写こそが、カンザスの白人中流家庭に育った少女には禁じられていた
シンプルなファンタジー —— 温かく、官能的で、エキゾチックで、異質な、
いまとは違う人生を約束するもの —— の反映なのだと」


大学入学以来、スタンリーは「アン」と自己紹介するようになった。
バラク・オバマ・シニアとは、ロシア語のクラスで出会った。彼はハワイ大学で受講する
最初のアフリカンの 1 人で、周囲の好奇心の的だった。彼は教会グループで講演し、
いくつかの地方新聞からインタビューを受けている。


「彼には、ひとを惹きつける人間的魅力があった」と、オバマ・シニアの
学生時代の友人でハワイ州選出議員のニール・エイバークロンビーは語る。


「彼は雄弁家だった。ありふれた意見でさえ、聴くひとを魅了した」


オバマ・シニアは、あっという間に友人グループのリーダー的存在になった。
エイバークロンビーは言う。


「ビールを飲み、ピザをつまみ、レコードをかけて踊ったもんだ」


彼らはベトナムや政治についても語った。


「誰もが、あらゆることに意見を持っていた。そして誰もが、
ラクの意見を聞きたがった。ほかの誰のでもない、バラクのをだ」