わたしはかんじがよめません


薬(猫の)とエサ(猫の)を受け取りに病院(猫の)まで行った帰りに本を買った。


  奥本大三郎パリの詐欺師たち』(集英社


ここ数年の経済的な事情からハードカバーの新刊本を買うのは随分と久しぶりだが、
「パリ」「奥本大三郎」とくればピンポイントである。買わずばなるまい。


主人公は奥山先生である。奥本氏本人のことであろうが、「先生」という呼称をつけて
三人称で叙述するため、さすがに「奥本先生」とはし得なかったのであろう。


退屈したので奥山先生はパリに行った。
パリですれ違った日本人が同朋である自分に対してあからさまにそっぽを向いて、
奥山先生は昔読んだ文章を思い出した。
昭和 6 年にフランスに渡り 32 年に帰国した彫刻家が、思想と感情を結びつける表現に
フランス語は優れており日本語にはそれが欠けている、と述べているのを読んで
本気で腹を立てたのだそうである。


  フランス語を少し学んで本当の語感の無い人間がよくこういう
  カン違いをする(中略)日本語という下駄で思うように歩けない
  のでフランス語という靴に履きかえようとする。それがまるで、
  一歩で百里を行く靴のように考えているのだが、言葉というもの
  は履き物でも乗り物でもなく、人間の肉体そのものなのである。


  マラルメヴァレリーを直訳してみせ、「これを口語で訳しても
  文語で訳してもリズムは全く失われてしまう」とか「傍線した
  言葉は、全然意訳しない限り語感もありません」と言う。それは
  あたりまえ、訳が下手なのである。(中略)外国語の詩を直訳し
  たものが詩にならぬのは当然で、日本語云々の問題ではない。
  優れた和歌や俳句は翻訳できないけれど「この頃の詩」は、翻訳
  すると元のより立派に見える、などと言うのは、これもあたり
  まえの話。要するにこの頃の詩が下手くそだから、というだけの
  ことなのである。


このくだりは日本語を文語に、フランス語を口語に置き換えれば、
ふたつの「即興詩人」”で書いた以下と重なるようであるし、


  文語で表現しきれないものを表現するために口語を手に入れたわけだけど、
  だからといって表現すべきものを手にいれたわけではない。
  逆に「これでなんでも表現できる」と思い込んでしまって、それを使って
  なにをどう表現するかを考えることを停止してしまった、のではないのか。


  「これがあればなんでもできる」と思ってコンピューターを買ってはみたものの、
  ではさて、それでなにをやるかが思い浮かばず、結局年に1回起動して年賀状を
  プリントするだけ、というのに似ていませんか。


さらに「言葉というものは履き物でも乗り物でもなく、人間の肉体そのものなのである」
とは、故山本夏彦翁がシオランを引用して言う「祖国とは国語だ」に通ずるものでもあろう。


奥山先生は翻訳家でもある。


  ある文学賞のパーティーで同業のフランス文学者、鹿島茂氏に
  あって、翻訳の話になった。彼もバルザックの翻訳で苦労して
  いると見えて、
  「あっちは語彙が多いから」
  と言った。
  同じパーティーマラルメ研究の菅野昭正先生も来ておられた。
  (中略)さっきと同じ話を、今度は質問にしてみた。するとマラ
  ルメの翻訳で苦労している先生は、苦々しげにこう言われた。
  「語彙があっても使えないよ」
  菅野先生の先生筋に当たる鈴木信太郎大先生が初めてマラルメ
  を訳された頃、明治生まれの大先生方は、どんな難しい語彙で
  あろうと、平気で使っている。当時はそういう言葉を知らなけ
  れば、知らない方が悪かったのである。
  しかし今は違う。難しい漢字なんか、使う方が悪いのである。
  フランス語の訳として、当てるべき日本語がいくつあったとし
  ても、難しすぎたり、古めかしくて使えないものが、お役所の
  御指導のせいもあって、どんどん増えている。


  戦争に負けて軍人が威張らなくなったのはいいけれど、儀式が
  簡略化され、賞状の文句がいかめしいものから猫撫で声のもの
  になり、誰にでも解る言葉を、と心がけているうちに大人が子
  供みたいな言葉を使うようになった。


自分は某出版社某編集部の一隅に席を与えられ、他人様が書いた原稿を読んで過ごす
のが目下の仕事である。
出版社では社ごとに表記ルールが決められ、出版物の表記は統一されるのが普通、の
ハズである。ところがそれをイヤがる執筆者も中にはおられる。
ある言葉を表すのに漢字にするか仮名にするか、漢字としてもどの文字をあてるかに
その人なりの拘りがあり、手を入れるなど罷りならんというわけである。


そうした拘りには、それならそれで原稿の中で表記を統一してくれよと思う以外に
異を唱えるつもりはないが、その中でも特定の編集者から渡される原稿は、やたらと
仮名が多い。
あまりに仮名ばかりなので当の編集者にお伺いを立てたところ、読みやすくしたいので
漢字はあまり使いたくないとのことである。つまり仮名が多いのはその編集者の意向に
沿ってということなのだろう。


かなばかりがずらずらとならぶ文章は、とくにモニターなどで読むばあいにはひじょうに読みずらいと思っていたじぶんにはとてもいがいな考えかただった。


「可読性(かどくせい)」という言葉がある。
可読性がよい(高い)、可読性が悪い(低い)とは、読みやすい、読みにくいと
いうほどの意味である。
メディア(表示媒体)での表示方法まで含めた広い範囲で語られる概念なのだが、
文章の表記の仕方に限ってみても可読性の高い表記もあれば低い表記もある。


アルファベットで書かれた文章が読みやすいのは、単語間にスペースが置かれて
単語単位で結構を把握できるからである。
スペースが一切ないアルファベットの羅列は、間断なく並ぶキャラクター群のどこから
どこまでが一単語であるか瞬時に判別できるだけの語彙力がなければ、読み下すのは
相当に難しいに違いない。


もっとも、アルファベットによる表記法でスペースによる分かち書きが行われるように
なったのは 7 〜 8 世紀頃らしいが、それ以前は「黙読」ではなく「音読」が一般的で、
「読む」というよりもリズムやメロディーを伴って「歌う」に近いものだったのでは
ないか。テキストは口誦・口承の補助的な役割を果たせればよく、「黙読のしやすさ」
などという考え方は必要なかったのだろう。


対して、現代の各メディア上で表記される黙読を前提とした日本語テキストは、
どのように単語を把握し構文を理解するのか。


句読点はあるが、これの役目は欧文のスペースに相当するものではない。
スペースと同様に用いられるのであれば単語ごと、あるいは文節ごとに読点が打たれる
ことになる。文章を書き慣れない人の文章では珍しいとも言えない用いられ方だが、
構文によっては文意がさっぱり分からなくなる。
実はここに、漢字仮名まじり文という日本語表記の持つ機能が、大きな役割を果たして
いるのである。


ごく単純に言えば、名詞と活用語の語幹は漢字、その他と活用語尾は仮名(代名詞・
副詞・接続詞・感動詞に漢字をあてることもあるが)と書き分けることで、視覚的に
単語の区別を容易にし、文章の可読性を高めているのである。
仮名ばかりの文章は、スペースのないアルファベットの羅列と同じではないか。


漢字ばかりの文章は読みにくいという人がいる。
これは可読性(読みやすさ)の問題ではなく、「わたしはかんじがよめません」と
言っているだけのことである。
分からない漢字があるなら辞書を引けと思うが、そういう人はその手間を惜しんで
自分の知らない漢字を使うなと威張るのである。奥山先生が「当時はそういう言葉を
知らなければ、知らない方が悪かったのである。しかし今は違う。難しい漢字なんか、
使う方が悪いのである」と言う所以である。
そして出版社の編集者が、それを率先するのである。


ところで『パリの詐欺師たち』である。
タイトルは「詐欺師たち」と複数だが、読む限りにおいて「詐欺師」と呼べそうな登場
人物は「平田」一人である(「詐欺師」ではなく単なる「大ボラ吹き」という気もするが)。
なぜ「パリの詐欺師」ではなく「パリの詐欺師たち」なのか。
平田のモデルが実は一人ではなく複数の「大嘘つき」を一人のキャラクターに押し込んだ
のか、バウチャーを発行しながら勝手にホテルの予約を取り消して「会社の組織がこれだけ
大きくなりますと、誰が何をしているか判りません」と言う M トラベルをも「詐欺師」と
言っているのか、彫刻家がヴァレリーの訳で「夜々」と複数形にしたことに対する皮肉か、
はたまた、このストーリー自体が「フィクションですよ、だから主人公もわたし“奥本”
ではなく“奥山先生”になってるでしょ」(わたしも「詐欺師」の一人なんですよ)という
含みなのか。


なんにせよ、「平田」のような人物が目の前にいたら、自分ならブチ切れているだろう。
そんな相手に対して、日記に「何ぬかす アラン・デュカスが腰ぬかす」と書きつけて
面白がることのできる「奥山先生」は度量の大きい人物だなあと感心するのだが、
その先生をもってして離婚やむなしに至った元奥さんとは、どのようなキャラクター
だったのだろう。
知りたいような、知りたくないような。