ふたつの「即興詩人」


最近はノーミソの筋肉が疲れていて、うちに帰ってまでネットにつなぐのが
メンドクサくなっている。
仕事で1日8時間以上、ネットで調べものばかりしているからね。
当然メインの仕事道具はコンピューター。


なぜそんな調べものをしているかというと、他人様の書いた文章を読んで、
そこに書かれている内容が正しいかどうかをチェックして、
もし間違いがあれば指摘するのが目下の仕事だからです。
一般にこれを「校閲(こうえつ)」といいます。


好きでコンピューターを扱っている友人とかに尋ねると、
みな毎日コンピューターに向かっていても「苦にならない」と答えるのですが、
自分はコンピューターが好きではないので、キャパシティーを超えると途端に
嫌気がさしてくる。


文章を読むのは嫌いではないので、それなら現在の仕事は
コンピューターと文章でプラマイゼロかというとそうでもなく、
そこに書かれている分野に興味があろうとなかろうと
アタマの1字からオワリの句点まで2度3度と読み直し、
おまけにウマい文章ならまだしも、あなたの人生どこをどう間違って
この原稿を書くハメに陥っちゃったんですかと逆に同情したくなるような
文字の羅列を、これはひょっとしてこういうことを言いたいのだろうかと
類推しながら読みこなすのは、なかなかツライものがあります。


そんなこんなで、うちに帰ってまでも文字なんか見たくないと思っているのですが、
まさにその理由から「文章」に対する飢餓感もわれ識らずしんしんと
降り積もっているらしく、ここひと月ほど帰宅してからは本を読んでいました。
といっても、新しく買ったのではなく、棚から古い本をひっぱり出して。


そんな中でも、森鴎外訳『即興詩人』(宝文館出版/昭和44年刊)は新鮮だった。
買ったのは随分と前だったのですが、お話自体はそれ以前に岩波文庫版で読んでいて、
あんまりおもしろいお話とも思えず、世に「名訳」と言われる鴎外訳を
古本屋で見かけて買ってはみたものの、なんとなく読みそびれていたわけです。
それを今回、どれどれと思って読んでみた。
いや、おもしろかった、アヌンチヤタ(アヌンツィアータ)の遺書には泣かされた。


鴎外訳と岩波文庫版でなにが違うかというと、まず訳者が違う。
当たり前ですが。


岩波文庫版の訳がヘタというわけではないと思うのです。
まがりなりにも、かの「岩波書店」から訳書を出そうというのに
そうそうヘンなひとを使うわけにも、いかんじゃないか。
もっとも、故山本夏彦翁は日本語をダメにした元凶のひとつに
「岩波語」を挙げておられますが。


うーん、まあ確かに岩波文庫版の文章は読みづらくはない、
すらすら読めるけど、「読んでおもしろい文章」ではないな、と思う。
原作者がアンデルセンというところにこだわって、
無理矢理「童話」にしてしまおうとしているような。
例えば村上春樹倉橋由美子が訳していたら、
また違うものになっていたことでしょう。
倉橋由美子、亡くなってしまいましたね、残念ながら。


えー、鴎外訳と岩波文庫版でなにが違う。
鴎外訳は「文語」ですな。
アヌンチアタの遺書なんて「候文」ですよ。


「文語」というと、途端に拒絶反応を示すひともあります。
いわく、文語では表現しきれないから口語になった、
文語は必要ないから使われなくなったのであって
それをいまさら云々するのは無意味である。


確かに、文語では表現しきれないものを表現しようとして二葉亭四迷は悶え苦しんで
口語の扉を開いた、というか、なにもないところに口語の扉をつくりだし自らそれを開いた、
と言うべきか。


口語によって初めて表現することを得たものもあるでしょう。
でも同時に、文語を捨てることで失ってしまった表現領域もあるのではないか。
ふたつの「即興詩人」を読んで、さらに他人様が著わす種々文章を日々目にして、
そんなことを思うのでした。


ついでに言及すれば、「文語は必要ないから“自然に”口語へ移行した」のではなく、
制度がそういうふうになっちゃった、ということでしょう。


まず公教育から文語が削られていった。
背景がどういうものだかは知りませんが、まあおそらく、欧米列強に伍すべく
日本語の平易化を図ったとかなんとか、そんなところではないか。
旧かなが奪われ、当用漢字常用漢字が制定された流れの源流あたりなのでは
ないでしょうか。


そうした流れの中で、日本語は漢字仮名がたくさんあって、読み書きのために
それらを覚えなくてはならないのは、アルファベットを覚えりゃ OK の欧米に比して
効率がわるい、漢字仮名はよしてローマ字にしてしまえ、いやいっそのこと
英語を国語にしてしまえ、という動きもあったそうです。
「英語を国語に」なんて言ったのは、森有礼ですよ。


一種「トンデモ」に近い考え方だと思うのだけど、
いまもってそういうことを考えるひとは絶えないらしい。
しかもジョーダンかと思いきや、どうやらマジです↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080507/155426/
それに対する読者コメントも↓
http://business.nikkeibp.co.jp/fb/putfeedback.jsp?_PARTS_ID=FB01&VIEW=Y&REF=/article/topics/20080507/155426/


強大な国がよその土地を侵略支配して植民地とするために、まずなにをするか。
その土地そのひとびとの宗教とことばを奪うのだそうです。
宣教師というひとたちは、辺境の地に生命を賭して赴く本人の自覚はどうあれ、
実はそういう役目も担っていたわけですね。


「ことばを奪う」というのは、そういう意味を持っている。


小学校の英語教育義務化が、いよいよ本格的に議論される流れになってきたらしいですが、
それはそれでいいと思いますよ。
英語(というより米語)が世界の公用語であることは、どうにも動かないでしょうから。
だけど、それだけで上記紹介記事の筆者が言うように日本人が議論巧者になるとは、
とても想像できない。


  (まあ筆者に言わせれば、漢字を覚えさせられるうえに
  英語まで覚えなきゃならないのは、負担が増加するだけ、
  漢字をもっと減らせ、ということになるのかもしれない)


英語の授業で、指名されて意見を求められたときに「アイム・シンキング・ナウ」と
答えたり、誰かがなにか言ってやっと「アイ・シンク・ソー」とか言ってたんじゃ、
いままで日本語で「いま考え中です」とか「わたしもそう思います」と言ってたのと
変わりゃしない。


自分で考えて自分のことばで発言するというのは、何語で考え何語で言うか、
文字をどれだけ覚えているかなどというのとは、まったく別な問題でしょうよ。
自分の考えを述べる訓練は国語の授業の範疇、というのも違うだろうし。
母国語でまともに喋れない、まともに文章を書けない人間は、
何語を使ったって喋れないし書けないんじゃないの。


文語はいまさら必要ないと言うひとは、
文語をちゃんと読んだことがあるんでしょうか。


口語というのは、そりゃ便利ではあるけれどたかだか100年やそこらの歴史しかなくて、
しかもその中ですら、時々のお役人の思惑や、さらに昨今は女子高生の間で流行ってる
ネットで使われてるという理由で右往左往して、いまだ確立されたとは言い難い。


古事記から1000年かけて積み上げられた国語表現をあっさり捨てたそのひとたちが、
英語の単語を覚え文法を覚えてなにを表現しようというのか。


文語で表現しきれないものを表現するために口語を手に入れたわけだけど、
だからといって表現すべきものを手にいれたわけではない。
逆に「これでなんでも表現できる」と思い込んでしまって、それを使って
なにをどう表現するかを考えることを停止してしまった、のではないのか。


「これがあればなんでもできる」と思ってコンピューターを買ってはみたものの、
ではさて、それでなにをやるかが思い浮かばず、結局年に1回起動して年賀状を
プリントするだけ、というのに似ていませんか。


文語に回帰すれば表現したいものが湧いて出る、というわけでもありませんが。
単なる表現手段だもの、文語も口語も、英語もね。
自分だって文語なんて書けやしない。
漢籍の素養もないから、ただ読むだけだってけっこう難儀だし。


ただ、いま自分がそういう表現手段を身につけていないことを、
英語で思うようにコミュニケーションが取れないことを残念に思うのと
同じように残念だなあと思ってはいますね。
かといって、これから頑張って文語を身につけるのは、これから頑張って
英語を勉強しようというのと同じように、実際にそれに取りかかる前に
挫けちゃうわけです。


でももし、自分に就学前の子どもがいたら、「論語」の素読
子どもと一緒に勉強してみたいなあと思ったりする。