人民日報的“華南虎”総括

     人民網人民時評 November 21, 2007
     人民日報人民時評:“華南虎事件”譲誰蒙羞


数カ月前、インターネット上に突如として現れた1枚の「虎の年画」が引き起こした
一場の茶番劇「全民打虎」には、そろそろ幕が引かれてしかるべきだ。


「華南虎事件」は神秘のベールに包まれてなどいない。
「華南虎はいない」とは、この件に関して利害関係のない部門の調査結果に基づいた
権威ある機構の鑑定であり、マスコミが根拠もなく言っているのではなく、ましてや
この虎を撮影した「英雄」本人の良心が明かしたことでもない。周正龍が公開した虎の写真と
「年画の虎」を比べさえすれば、このごく普通の農民の言うことなど聞く必要もない。
専門家だけではなく、年画の印刷会社さえ「写真の虎と年画の虎は、99%同じ」と述べている。
さらにいまとなっては、擁護派ですら「ニセモノだ」と言い始めているではないか。


そもそもの発端から、多くのひとは写真の真贋を糾すことが針小棒大であることを自覚していた。
ここまで多くのひとを騙そうとの意図をだれかが以てしたのではなく、たったひとつのデタラメが、
凄まじい勢いで規模を広げ、そのデタラメに対する手酷い仕打ちを招いたのではないか?


「華南虎事件」は、なぜこのような、ひとびとの強烈な反応を引き起こしたのか。
事件そのものにその根源があるのではなく、実は背後に隠れた利権がある:


陝西省鎮坪県はこの虎騒動が地元に名誉と利得の両方をもたらす絶好の機会ととらえ、
まさに「虎の威を借りて」、巨費を投じて140平方キロにわたる華南虎自然保護区を建設し、
観光資源に仕立てようとした。これ自体は、地方経済の発展に資するための情熱を
以てのことと理解できるが、虎の写真の真贋が問われるに当たって、隠そうとすればするほど
関係部門や専門家によって指摘される、いかにも素人的な手抜かりが百出し、その真偽を
とことんまで突き詰めようとするインターネット利用者の“その気”をあおることとなった。


信用と誠実の喪失は、わが国社会にとって一大公害である。
ひとびとの、互いの交流と関係性の維持が日に日に困難となりつつある時、
ただ数枚のデジタル写真のみを拠り所として新聞記者会見を開くなど、
人民に服するという公僕本来の自覚に欠けると言わざるを得ない。
適当なごまかしをよしとしないひとびとは、ますます信頼できる真相を求め、
真実に基づいた正しい行いを要求する。
陝西現地の政府官吏と学者が真実をあわてて覆い隠そうとしたような“作為”に比べ、
権威ある雑誌「科学」が問題の写真を掲載して発表した論文「“平面”老虎?」の
表題に見られる“不作為”は、泰然として読者に尊敬の念すら覚えさせる。
両者の真相の証明を求める観念と方法の違いは、深慮するに値しよう。


功利を急く地方官吏に比べ、国家林業局が取った態度は、ひとびとの尊敬を得るものだ。
彼らは写真の真偽に対する先入観を持たず、専門家を組織して現地に赴かせ、
野生の華南虎の生息状況を調査した。同時にひとびとの、陝西華南虎に関する興味を、
「生態や文明に対する社会的意識のさらなる高まりを示しており、野生動物への愛情や
野生動物保護事業への関心を表すもの」として肯定したのだ。


ひとびとの疑問も、当初は明らかに善意によるものだった。
しかし、そこに流れている真相を正常な手段で汲み上げることができないとなった時に、
インターネット上で「全民打虎」運動として一気に爆発したのだ。


司法によって真相追究にアプローチする法学修士の?(ハオ)勁松は、
インターネット的な“情動”には、象徴的な意義があると言う。その道理は簡単だ:

知る権利を含めて公民権は天から自然に降ったものではなく、合法的に争い勝ち取られて
きたものである。(今回のインターネット上での動きは)政府機関に対して説明を求める
といった方法ではなく、法律で認められている手段を用いて仕掛けられた合法的な闘争であり、
法治社会においてひとびとが公共の問題を解決する際の素質と理性が表れるべくして表れている。


「華南虎事件」は、水が落ちて石が出た(事実は明らかとなった)。
しかしこの問題を、ここで終わらせてはならない。
ニセモノを作った個人に、国家財産を詐取した嫌疑で相応の法的責任を負わせれば済むのだろうか?
もしこれが、だれかの指図の下で、あるいはだれかと相謀って行われたのであれば、
事はさらに厳しいものとなる。ひとびとは、さらなる真相が明らかになることを望むだろう。


     (ツチノコ、ヒバゴン、イッシー、クッシー、華南虎(huananhu)参照)