余裕のある貧乏、ない貧乏

 > プレカリアート(不安定な雇用・過酷な労働状況を余儀なくされる非正規雇用者・失業者)とは、
 > 「Precario(不安定な)」「(Proletariato(プロレタリアート)」(いずれもイタリア語)を
 > 組み合わせた造語である。


 > 日本におけるプレカリアートの典型が若年ホームレスたちだ。日雇い派遣で仕事をこなし、
 > 6000円から8000円といった額の日銭を稼ぐものの、まとまったお金がない、身元保証人がいない
 > などの理由で、雨露をしのぐ部屋すらも借りられず、ネットカフェや24時間営業のマクドナルドを
 > 寝ぐらにする現代日本の“難民”たちである。


 > この本で圧巻なのは、男性フリーター2人と、大企業勤務の勝ち組女性、団塊世代の主婦、
 > それに著者らが加わった「就職氷河期世代の逆襲!」と題した座談会である。「フリーターに
 > なるのは本人のやる気のなさが原因で、正社員になれない自分のどこが悪いのか、徹底的に考え直せ」
 > と団塊主婦が口火を切れば、「彼らはナマケモノではなく時代の犠牲者なのだ」と著者が反論、
 > 「格差の固定を避けるために、収入のある正社員の女性はフリーターの男性と結婚すべき」と
 > フリーター氏がのたまえば、「完璧な家事のプロでなければ駄目」と勝ち組女性がやんわりとNOを出す。


 > 知名度や規模を度外視すれば、現時点でもそういう企業は結構あるように思えるが、多くの若者は
 > 「えり好み」する。先の座談会でも、新聞の広告欄に「鳶募集・寮完備・未経験者歓迎」といった
 > 待遇のよさそうな働き口は結構あるじゃないか、という団塊主婦の言葉に、フリーター氏は
 > 否定の意味を込めてこういう。
 > 〈職人の世界って独特な体育会系の雰囲気じゃないですか〉
 > 本当に「貧乏」からの脱出を考えるなら方策はいくらでもある。食うには困らないこの国で、
 > 「仕事」をして生きていくのは何て大変なことだろう。
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071030/139064/




近況を尋ねるたびに、仕事がなくて困った困った、と言ってるやつがいて、
仕事しなきゃ困るだろうと思うのだけど、クルマは持ってるし
毎夏冬にはコミケへ行って10万円単位で同人誌を買ってるし。


まあ確かに家庭の事情とやらで、ふつうの勤め人のような就業形態を取ることができなくて、
知り合いからぽつりぽつりとあてがわれるDTPの下請けのような仕事だけやっているという状況も、
その家庭の事情とやらを知ってみればやむを得ない部分もあるなと思いつつ、
それだけじゃあ十分な稼ぎにはならないだろうから、いろいろ制約がかかる中で、
じゃあこんなやり方はどうか、あんなやり方はどうかと意見すると
いや、なかなかそうはいかない、と仕事できない理由をあれこれと並べ立てるのだけど、
自分には、なんでそれが「仕事がない、仕事できない」理由になるのか、よく分からない。


たぶん彼が言ってるのは、「仕事がない理由」ではなくて、
「仕事しなくてよい理由」なんだなと、思うわけです。


彼の場合は「条件に合う仕事に恵まれないフリーランサー」であって(その“条件”があまりに自分に
都合よすぎる、という点はさておいて)、いわゆる「フリーター」というのとは違うとは思うのだけど、
近年「フリーター」という存在が語られるとき、それは「格差」の枕詞もしくは掛かり言葉的に
社会問題の一現象としてとらえられていますが、そうした就業形態は「フリーター」ということばが
定義される以前から、たしかに存在していたのではなかったか。
格差問題出現以前と比べてなにが変わったのだろうか、と考えてみるに、ひとつには以前は、
「仕事しなくてよい理由」というものがふつうのひとには、あまりなかったんじゃないかな、という気がする。


「職人の世界って独特な体育会系の雰囲気じゃないですか」という理由で
自らを「フリーター」という“社会的弱者”の立場に置いて弱者救済を社会に求めるひとたちを、
どうとらえるべきなのか。


そういう立場にあるひとの、みんながみんな、そうだとは思いませんが、働き口を寄越せと言いつつ
目の前にある仕事を「雰囲気が気にくわない」という理由で断るなんざ、随分余裕かましてるなあ、
と思うわけです。


まあ、自分なんかもいまは週末の仕事は断ってますが、1年前には過労でフラフラになりながら、
こんな働き方を続けてたら、そのうち絶対倒れるなと思いつつも、仕事を断るなんて
そんなもったいないことはできなかった。
そうしなきゃ借金返しつつ生活を維持するなんて、できなかったからね。
1日1日の単発仕事の積み重ね、しか見えない状況で「今日も仕事があって、よかった」
と思う毎日の繰り返しでは、声をかけられたらとにかく受けるしかなくて、
いまみたく週末だけでも写真を撮って、なんてことは望み得ないことだった。
思えば随分、贅沢になったもんです。


まあ、それもこれも、猫のお陰ですかね。
このままだと、数カ月もしないうちにホームレス、という状況には、実はそれほど逼迫したものを
感じてなくて、それならそれでしょうがないか、という感覚だったんだけど、だからといって
猫も一緒にホームレスにするわけにもいかず、7頭全部の新しい飼い主を見つけるアテもなく、
自分が最後まで面倒見るしかないよなあ、と思えば、生活は維持しなくちゃならないし、
夜逃げもできないので借金も返しきらなきゃならない、となれば、なにがなんでも仕事するしかない。
猫さえいなきゃいまごろホームレス、というのは、けっこう現実味のある話だったりします。


いまの自分は、写真が売れなくても食えてることを
「しゃかりきになって写真を売らなくてもよい理由」にしてて、それは
「仕事しなくてもよい理由」をタテに仕事を選り好みするフリーターと
まったく同じ考え方でありますね。
もうちょっと危機感を持ちたいものだ。

補足

上で、


 > ひとつには以前は、「仕事しなくてよい理由」というものが
 > ふつうのひとには、あまりなかったんじゃないかな、という気がする。


と述べていますが、これは「仕事しなくてよい理由」が近年、新たに生まれてきた、
ということではなく、以前はそうしたことを理由に仕事しないことをよしとするメンタリティーが、
日本人にはなかった、あるいは忌避すべきものと考えられていたんじゃないかと思うわけです。
それらを理由に仕事しないひとは、まったくいなかったわけではないけれど、
日本社会の中では特異な存在だったハズで、ふつうのひとは自分自身がそうした存在になることを、
脅迫的と言ってもいいほどに避けようとしていたと思うのです。


それが例えば外国から見たときに「ワーカホリック」と揶揄されたメンタリティーだったし、
日本人自身に言わせれば「額に汗して働く」ことはすなわち「美徳」であったハズではないか。


現在、そうした「仕事しなくてよい理由」が受け入れられている根底には、
日本の未来を信じられない諦観があるのではなかろうか。
未来に希望がなければ、将来のためにいま働け、という言葉に現実味はないし、
それは若者に限ったことでなく国政においてすら、国家百年の計どころか
20年先を見据えた政治も、いまの日本では(政治家にも官僚にも国民にも)望むべくもない。
日本全体が、未来を見ることができなくなってるんでしょうね。


現在の延長に未来がある、とする考え方は、たぶん間違ってる。
現在しか見えない人間には、いつまでたっても現在があるのみで、
そして積み重ねられる現在は、日ごと磨り減ってゆく。
未来を見ることができる者にだけ、未来はあるのでしょう。


2007年11月4日mixi日記に加筆)