巨大ブログとしてのWikipedia


インターネット上の巨大掲示板……と言えば「2ちゃんねる」ですが、
新風舎商法で盛り上がってた時期に関連スレッドを追っていると、
新風舎から本を出した某の項目がWikipediaに立っていて、
“○○○○は日本の小説家”となっていたので、“自称小説家”と書き直してやった」
というような投稿があって、しばらくするとおそらく同一人物が、
自分が編集した“自称小説家”がまた“小説家”になっていたので書き直してやった、
みたいなことを書き込んで、WikipediaのそのページのURLを貼り付けて
他の2ちゃねらーに応援を要請しているのですね。
「こんなやつが小説家としてカテゴライズされていては、たまらん」というのが言い分らしい。


それを読んで自分なんかは、なにがタマランのだろうなあ、と。
“小説家”と(曲がりなりにも本を出した)“自称小説家”の違いなんて
“発酵”と“腐敗”あるいは“蝶”と“蛾”程度の違いなんじゃないか。
Wikipediaにあったからといって、小さな出版社から本を何冊か自費で出した“小説家”が、
たとえば学校の国語の教科書に採用されるとも思えないし、外国の出版社が「日本の小説家」として
紹介するなんてことも(まともな出版社であれば)あるとは思えない。


と同時に、この人物は、なぜそんなことをわざわざ2ちゃんに書き込んで
他人をそこへ誘導しようとするのだろう、とも考える。
純粋に“自称小説家”を“小説家”と呼ぶことは間違いだから正したい、と考えるのなら、
その都度編集して、なぜ自分がそう考えるかの根拠を本文なり編集ノートなりで示せばよいだけではないのか。


新風舎から自費で本を出して、それをもって自分のことを「日本の小説家」としてWikipediaに入れてるなんて、
(やったことないので想像するだけですが)「新風舎」「小説家」の2語で検索かければ出てくるでしょうが、
逆に言えばそうやって、“ある意図を持って”“わざわざ”見つけ出そうとしなければ、
そうほいほいと出てくるもんでも、ないだろう。


2ちゃんに書き込んだ人物は、自分が正しい事実を知っていることが誤って書かれていたから
それを正したのではなく、そこに自分の旗を立てたかっただけなんではないか。


Wikipediaに参加するひとの、みんながみんなそうだとは言わないけど
なんらかの形で自分の痕跡を残したいんだろうな、と思うわけ、たぶんね。
そういう意味では、この2ちゃんに書き込んでた人物も、自費出版してWikipedia
自分を「日本の小説家」として書き込む人物も、考えてることは同じだなあ、と。
そういうひとも、Wikipediaを編集できちゃうわけです。


くだんの“自称小説家”が“自分で”Wikipediaに自己紹介項目を立てた、というのは、あくまで想像ですが、
さらに想像を進めると、2ちゃんで「自称小説家、けしからん」と言ってる人物も
もし、自分になんらかの肩書きがあれば、Wikipediaで自己紹介してただろうな、とも思う。
自分にそれがないことをコンプレックスに思っていて、それがどーでもいいツッコミ行為を起こし、
「“おれが”ツッコんでやった」と2ちゃんに書き込むことで、“自分の旗をどこかに立てたい”
という自己顕示欲を満たしたんだろうな、とも考えられる。


だから自分の定義としては、Wikipediaというのは、ひとことで言えば「ブログの一種」ですよ。
正しいこともあれば、間違ってることもあるし、正しいのか間違いなのか確定していないこともある。
背景に、記述した人物の思考なり志向なり嗜好なりも垣間見える。


あちこちに乱立する「オレ様の旗」を承知のうえで、ちょこちょこつまみ食いする分には、
Wikipediaはそこそこオモシロイ。アテにはならないけどね。


2007年9月11日付mixi日記に若干の変更を加えてあります)